本文
北川清助(北川代官)の墓所
きたがわせいすけ(きたがわだいかん) の ぼしょ
文化財指定等状況
未指定
種別
史跡
時代(大分類)
近代
時代(小分類)
明治
地域
陶
所在地
山口市陶3907番地 正護寺
概要
説明
小郡宰判最後の代官、北川清助の墓。
北川家墓所には、中央に清助の墓があり、ここには後に後妻が合葬されている。その横には、彼の建てた先妻の墓と「倶会一処」の塚、背後の一段高いところに北川三家の碑があり、先祖代々の霊を集めて祀っている。
北川清助は、文政9年(1826)に大島郡で生まれ、天保9年に陶の士族の北川半衛門の養子となった。幼少から学問や武芸に励み、西洋砲術にも優れていた。 小郡宰判に勤め、文久3年(1863)、藩が小郡の福田口に鉄砲製造所を設置するにあたり、その監督者になっている。元治元年(1864)から明治2年(1869)の間には、代官職についた。慶応元年(1865)の内訌戦においては、諸隊の要請にこたえて金穀を援助し、また、管内の庄屋や郷士と協力して軍夫を集めるなど、諸隊を助け、大田絵堂の戦いで諸隊を勝利に導いた。明治3年(1870)の脱退騒動では小郡が戦乱の中心となり、この鎮圧に努力した。同年4年に官職を退いたが、同年10年の西南の役には志願して軍夫を率いて従軍した。その後は官途に就かず、同年35年に陶で亡くなった。
北川家墓所には、中央に清助の墓があり、ここには後に後妻が合葬されている。その横には、彼の建てた先妻の墓と「倶会一処」の塚、背後の一段高いところに北川三家の碑があり、先祖代々の霊を集めて祀っている。
北川清助は、文政9年(1826)に大島郡で生まれ、天保9年に陶の士族の北川半衛門の養子となった。幼少から学問や武芸に励み、西洋砲術にも優れていた。 小郡宰判に勤め、文久3年(1863)、藩が小郡の福田口に鉄砲製造所を設置するにあたり、その監督者になっている。元治元年(1864)から明治2年(1869)の間には、代官職についた。慶応元年(1865)の内訌戦においては、諸隊の要請にこたえて金穀を援助し、また、管内の庄屋や郷士と協力して軍夫を集めるなど、諸隊を助け、大田絵堂の戦いで諸隊を勝利に導いた。明治3年(1870)の脱退騒動では小郡が戦乱の中心となり、この鎮圧に努力した。同年4年に官職を退いたが、同年10年の西南の役には志願して軍夫を率いて従軍した。その後は官途に就かず、同年35年に陶で亡くなった。
材質
石(花崗岩)
立地
正護寺墓地
制作者等
北川家
文献
・青木繁『陶村史』陶村史編纂委員会、1974
・山口市ふるさと創生部文化交流課『山口市幕末維新人物ガイドブック』2018、P22
・山口市ふるさと創生部文化交流課『山口市幕末維新人物ガイドブック』2018、P22
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