本文
錦小路頼徳墓
にしきこうじよりのりはか

文化財指定等状況
市指定
指定区分
史跡
指定年月日
昭和44年3月21日
種別
史跡
時代(大分類)
近代
時代(小分類)
明治
地域
湯田
所在地
山口市赤妻町36番地
概要
説明
錦小路頼徳は、幕末の公卿で、早くから朝廷の威信の回復を祈り、三条実美らと志を同じくし、朝議に参画していたが、文久3年(1863)8月の政変に際して参内を停められ、三条らとともに長州に下った。いわゆる七卿落の一人である。山口では湯田に滞在していたが、元治元年(1864)3月、他の公卿と一緒に下関の砲台を巡視中に発病し、下関の豪商白石正一郎宅において同年4月、30歳で没した。
死後、遺骸を山口に迎え、藩主毛利敬親が喪主となってこの地に葬った。その後、明治3年に三条実美ら七卿関係者が発起し、墓の後方に記念碑を建立した。碑の篆額(篆字で書かれた石碑の題字)は三条実美、碑文は加藤有隣がつくり、長三州がこれを書いている。
墓の正面に「贈正四位丹波頼徳朝臣墓」、背面に「元治元年甲子四月廿五日卒」の刻銘がある。
死後、遺骸を山口に迎え、藩主毛利敬親が喪主となってこの地に葬った。その後、明治3年に三条実美ら七卿関係者が発起し、墓の後方に記念碑を建立した。碑の篆額(篆字で書かれた石碑の題字)は三条実美、碑文は加藤有隣がつくり、長三州がこれを書いている。
墓の正面に「贈正四位丹波頼徳朝臣墓」、背面に「元治元年甲子四月廿五日卒」の刻銘がある。
規模
高さ98cm、幅36cm四方、台座から頂上までの総高は136cm
材質
石(花崗岩)
製作年/建造年
明治3年(1870)
関連文化財群
維新策源地・山口
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