本文
絹本着色毛利秀包像
けんぽんちゃくしょくもうりひでかねぞう
文化財指定等状況
市指定
指定区分
有形文化財
指定年月日
平成19年12月7日
種別
有形文化財(美術工芸品)
美術工芸品の分類
絵画
時代(大分類)
近世
時代(小分類)
江戸
地域
吉敷
所在地
山口市吉敷佐畑四丁目10番20号 玄済寺
概要
説明
右手に笏を持ち高麗縁の上畳に座る束帯姿の毛利秀包を描いた肖像画である。 画面の寸法は縦96.7cm、横34.2cmで、年代は慶安3年(1650)頃。上方に奇雲玄□による賛がある。
毛利秀包(1567~1601)は、毛利元就の九男で、吉敷毛利家の祖である。幼時に備後の太田家を継ぎ、さらに兄小早川隆景の養子となった。島津合戦の功により久留米城を与えられると共に豊臣姓を許され、桐の紋と陣幕も与えられたという。
小早川隆景が秀秋を養子にする際、別家を立てて毛利姓に戻った。関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601)に赤間関で没した。
秀包の後は元鎮が継ぎ、長門の殿居に移った。吉敷に移ったのは元鎮の子・元包の代である。玄済寺は吉敷毛利家の菩提寺で、秀包が豊浦郡に創建したものを元包が吉敷に移したと伝えられている。
※□…勳の古字、員に力
毛利秀包(1567~1601)は、毛利元就の九男で、吉敷毛利家の祖である。幼時に備後の太田家を継ぎ、さらに兄小早川隆景の養子となった。島津合戦の功により久留米城を与えられると共に豊臣姓を許され、桐の紋と陣幕も与えられたという。
小早川隆景が秀秋を養子にする際、別家を立てて毛利姓に戻った。関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601)に赤間関で没した。
秀包の後は元鎮が継ぎ、長門の殿居に移った。吉敷に移ったのは元鎮の子・元包の代である。玄済寺は吉敷毛利家の菩提寺で、秀包が豊浦郡に創建したものを元包が吉敷に移したと伝えられている。
※□…勳の古字、員に力
規模
縦96.7cm、横34.2 cm
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