本文
霊光院五重小塔
れいこういんごじゅうしょうとう

文化財指定等状況
市指定
指定区分
有形文化財
指定年月日
平成2年6月22日
種別
有形文化財(建造物)
時代(大分類)
近世
時代(小分類)
江戸
地域
名田島
所在地
山口市名田島3483番地
概要
説明
寺伝によると、この塔の由来は次のとおりである。
文政5年(1822)長州藩主毛利斉熈(なりひろ)が防府天満宮の境内に五重塔建立を計画した。
斉熈から家督を継いだ斉元(なりもと)もその志を継ぎ建立工事を進めた。
しかし、天保2年(1831)の百姓一揆により工事は中断するに至った。
塔の建立を命じられた大工は、宮市に住む松屋喜右衛門という棟梁であった。
喜右衛門は建立の命を受けると、20分の1の塔雛型を造った。
建立工事の中断後、喜右衛門はこの雛型を日頃帰依している常栄寺の諦洲(ていしゅう)和尚に贈った。
隠居し、霊光院に住んでいた諦洲和尚は、小塔の寄進を喜び、塔の台石の中に53,000体の戒者の位牌を納め供養塔とした。
防府天満宮では、建立工事の中止後、その材料で現在残っている春風楼を造った。
なおこの五重小塔は平成3年に地蔵院に移された。
文政5年(1822)長州藩主毛利斉熈(なりひろ)が防府天満宮の境内に五重塔建立を計画した。
斉熈から家督を継いだ斉元(なりもと)もその志を継ぎ建立工事を進めた。
しかし、天保2年(1831)の百姓一揆により工事は中断するに至った。
塔の建立を命じられた大工は、宮市に住む松屋喜右衛門という棟梁であった。
喜右衛門は建立の命を受けると、20分の1の塔雛型を造った。
建立工事の中断後、喜右衛門はこの雛型を日頃帰依している常栄寺の諦洲(ていしゅう)和尚に贈った。
隠居し、霊光院に住んでいた諦洲和尚は、小塔の寄進を喜び、塔の台石の中に53,000体の戒者の位牌を納め供養塔とした。
防府天満宮では、建立工事の中止後、その材料で現在残っている春風楼を造った。
なおこの五重小塔は平成3年に地蔵院に移された。
規模
高さ約2.8m
材質
総欅造り
立地
霊光院の開山堂の中に置かれていた。
制作者等
松屋喜右衛門
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