本文
成瀬仁蔵旧宅跡
なるせじんぞうきゅうたくあと
文化財指定等状況
市指定
指定区分
史跡
指定年月日
昭和44年3月21日
種別
史跡
地域
吉敷
所在地
山口市吉敷赤田一丁目17番
概要
説明
日本女子大学の創立者、成瀬仁蔵は安政5年(1858)に吉敷赤田の地に生まれた。成瀬家は吉敷毛利の家臣であったので、仁蔵は少年時代憲章館に学び、明治9年(1876)山口県教育養成所を卒業し、しばらく小学校の教師をしていたが、後に大阪に出て、郷土の先輩沢山保羅を助けてキリスト教の布教にあたった。また、梅花女学校、新潟女子校、北越学館などを創立し、女子教育に力を尽くした。
その後、明治23年(1895)にアメリカに留学しクラーク大学で学んだ。帰国後、日本に女子大学を創ることを計画し、官・財界の協力を得て明治34年(1901)4月に我が国初の女子大学を東京目白に創立した。その後、仁蔵は女子教育の発展と向上にその生涯をかけ、大正8年(1919)3月、62歳で死没した。
その後、明治23年(1895)にアメリカに留学しクラーク大学で学んだ。帰国後、日本に女子大学を創ることを計画し、官・財界の協力を得て明治34年(1901)4月に我が国初の女子大学を東京目白に創立した。その後、仁蔵は女子教育の発展と向上にその生涯をかけ、大正8年(1919)3月、62歳で死没した。
規模
面積1,411平方メートル
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